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2010年9月9日木曜日

疑問と不安

管理人の感想です。
ここまでの手記を読んであらためて当時の記憶がよみがえりました。ワリードが当時わたしに伝えなかったことも書いてあります。しかし当時の疑問が解消したともいえません。読んでおられるかたは納得されているでしょうか?
・なぜ家族から反対されかつ脅迫されてまでテレビの仕事を続けたのでしょう?
・サマワの責任者が拉致殺害されているのになぜサマワに家族で避難したのでしょう?
上記二点(家族の反対とサマワでの殺害)は今回初めて知りました。常識的にはガイドの仕事は外国人といるだけでターゲットと見なされ危険でした。
ワリードは長い日本人とのつきあいで身につけた、日本人にはかゆいところに手が届くガイド能力に自負があったことでしょう。さらにふつうには稼げないギャラも手にしていました。単純には比較できませんが戦前、NGOが払っていた給料の50倍をマスコミはポンと出していました。
不安に思っており「十分稼いでいたのだからもう商売でも始めて、外国人と手を切るべきだ!」と言ったところで聞くわけがありませんでした。
サマワでの業務も問題でした。サマワはシーア派エリアでサダム時代に相当の迫害を受けていました。サダム時代は表向きは宗派対立はありませんでしたが裏では当然差別がありました。サマワは当時もっとも国外に逃れる住人の割合が高かったと聞いたことがあります。すさまじい迫害があったからです。戦後は米軍に抵抗するよりサダム=スンニへの反感で「敵の敵は味方だ」という論理で米軍に協力すべしというファタワが出たともいいます。それゆえ自衛隊活動の候補地としては住民から協力が得やすかったのです。ワリードの問題はおのずと発生しています。彼はスンニだったのです。しかもバグダッド育ちの都会っ子でした。
シーア派地域ではシーアのガイド、スンニ派エリアではスンニのガイドが適切でかつ本人のためでもあったと思っています。管理人は南部シーア派エリアで活動するときはシーアの友人に協力を得ていました。
それでもワリードが避難先としてサマワを選んだのは長く住んでしがらみが多く、人間関係が硬直してしまったバグダッドよりスンニがごく少数で、かえって猟師の懐の「窮鳥」たりえたサマワのほうが、比較として安全だったのではということです。
覆水盆に返らず。ワリードは稼いだ全てを失った、それ以上かもしれませんが失ったようです。

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